絵画感想文 〜臨床心理士がアート作品と対話しながら鑑賞し、作品の意味について考え、感受性を磨く訓練をしてみました〜

知識はなく、解説はできません。思い浮かんだことを、自由に書いていこうと思います。作品との対話による美術鑑賞や、ハウゼンとヤノワインのVisual Thinking Strategy(VTS)をやってみた、という感じです。

055.フランシス・ベーコン ≪人体の習作≫ 1949年 ビクトリア州立美術館、オーストラリア

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人体の習作

タイトルには“人体の習作”とある。

しかし、男性らしき人は後ろを向いている。

 

後ろ姿の習作なら分かるが、

なぜこれが人体の習作なのだろうか。

 

後ろ姿こそが、その人の人となりを表す。

背中で語る、ということなのだろうか。

 

人は裸で、どこかに行こうとしている。

背景は黒なため、

暗部、他者に知られたくない所に

人は向かっている印象を受ける。

 

頭が下がっており、

気がせいているか、下に何かある感じがする。

体からは緊張は感じない。

 

シャワーを浴び終え、

不倫相手の待つベッドに行く所、

といった感じだろうか。

 

こう見ると、

秘め事をする時の人の動きが

適切に描かれていることに気がつく。

 

良くないと分かっていつつも

良くないことをしてしまうのは

人間の性(さが)か。

 

秘め事の前触れが見事に描かれた作品だ。

054.ルシアン・フロイド ≪バラを持つ女≫ 1947~48年 ブリティッシュ・カウンシル・コレクション、ロンドン

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バラを持つ女


精神分析の祖、ジクムンド・フロイドの孫の作品を

取り上げます。

 

目をギョロつかせた女性が

手にバラを持っている。

 

バラといえば、

遠くから見る分には綺麗だが、

近すぎるとトゲがあるのでケガをする、

距離を縮め過ぎると危険な魔性の女性

というイメージを抱かせる。

 

女性が手に持ったバラは女性自身であり、

自分の首を自分で絞めた。

魔性の女として振る舞ったことで、

 

駆け引きしないでストレートにした方が良かった。

こんな悔しさが伝わってくる。

 

ギョロつかせてバラを持っているだけだが、

すごく悔しさの伝わってくる作品であり、

感情を伝えるという点においては

非常に優れた作品だ。

053.アントニ・クラーヴェ ≪スイカを持つ子ども≫ 1947~48年 テート・コレクション、ロンドン

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イカを持つ子ども

着飾った顔面蒼白な子どもが

イカを持っている。

 

CMを撮る前の

子役スイッチを入れる前の

緊張した子どものように見える。

 

監督が「スタート」と言った瞬間

彼の表情はぱっと明るくなり、

イカにかぶりつく。

その数秒前のシーンに見える。

 

描かれた年を考えれば、

広告用の写真を撮る前

といった所か。

 

彼はスイカを持って本作の観客を見ている。

イカのことは見ていない。

イカに対するウキウキした感じや嬉しさが

全く伝わってこないので、

私は上記のように考えた。

 

イカの赤と彼の顔の青さの対称性が

想像力を膨らませる作品だ。

052.マックス・エルンスト ≪セレベスの象≫ 1921年 テート・コレクション、ロンドン

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セレベスの象

タイトルには“象”とあるが、

中央に描かれているのは、

何かの大きな装置のようである。

 

確かにその装置は象のようであり、

装置から出ている管は

象の鼻にも尻尾にも見える。

 

私には尻尾に見え、

象の後ろ姿が大きく描かれているように感じる。

 

象は荒野におり、

食べることができそうなものは、全くなさそうである。

このままでは象は、お腹が空いて

死んでしまうであろう。

 

あてもなく、さまよっている巨象。

これは正しく現代の大国に思えてならない。

 

工業化に成功し、象よりはるかに大きな装置を

作ることが可能になったが、

今後の見通しは全く明るくない。

 

描かれている人に顔がないのも、示唆的だ。

しっかり顔を出し、責任を持って

大国を適切な方向に導こうとする人の不在を暗示させる。

 

象にも人にも動きを感じをない。

ただ滅びるのを待っている感じがする。

 

諦めてしまったのか。

何も打開策を見いだせないのか。

 

象の尻尾は丸まっており、人の手は上がっている。

これらが、垂れ下がってしまったら、終わりだろう。

残された時間は、あとわずかしかない。

051.エドガー・ドガ ≪舞台の踊り子≫ 1876~77年 オルセー美術館、フランス

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舞台の踊り子

右に、踊っているバレリーナが描かれている。

腕の微妙な形や衣装から、優美さが伝わってくる。

 

しかし、私は舞台のそでが気になる。

黒い服を着た人は舞台監督だろうか、

踊っているバレリーナのコーチだろうか。

そでには、他のバレリーナが数名控えていることも分かる。

 

つまり、舞台で踊っているバレリーナ

単にのびやかに踊っているのではなく、

緊張感を持って踊っていることが、

本作を見れば見るほど伝わってくる。

 

本作は、だらけた日常を送っている人に対して、

ぴりっと身を引き締めさせてくれる作品だ。

050.ピエト・モンドリアン ≪赤、青、黄のコンポジション≫ 1930年 チューリッヒ美術館、スイス

 

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赤、青、黄のコンポジション

これが絵なの?

と子どもの頃にとても不思議に感じたことを思い出す。

 

これを絵として発表した

モンドリアンの度胸に圧倒される。

これが絵なの?と何度も何度も質問されたことであろう。

これを評価した人にも感嘆を覚える。

 

確かにインパクトはある。

誰も真似できないであろう。

インパクトの強さゆえに多くの人に記憶されるため、

真似をしたら、すぐに糾弾されてしまうであろう。

唯一無二の存在物を提供したとも言える。

 

ただ、絵のメッセージは分からない。

タイトルを見てみる。

 

コンポジションとは構成という意味だ。

それが分かると、一気に想像が膨らむ。

 

赤は情熱を表しているのではないか。

情熱は、前向きに生きていく上でのエネルギー源あり、

たくさん必要だ。

本作の中でも赤が多くの部分を占めることにも合点がいく。

 

青は冷静さを表しているのではないか。

これも必要だが、あまりに大きいと醒めた感じになり、

情熱の赤より小さい方が適切であろう。

青は赤の対極に配置されているのも示唆的である。

 

しかも、青は赤より下にある。

より表層的な行動は情熱的に、

より深層的な思考は冷静に

ということか。

 

黄は光、可能性を表していそう。

上記のように、情熱的かつ冷静に対処することで

ようやく可能性が端に顔を出す

ということだろう。

 

情熱・冷静・可能性の絶妙なバランスに

多くの人が感覚的に惹き付けられるからこそ、

本作は今後も多くの人を魅了し続けていくのであろう。

049.エゴン・シーレ ≪洗濯物のある家≫ 1917年 個人蔵

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洗濯物のある家

奥行きがない。

遠近法を使わず、

真横から見ている絵となっている。

 

子どもが描いた絵のようだが、

敢えてそうしているのだろう。

 

おんぼろの家の前に

たくさんの洗濯物が干されている。

 

空と家の壁の灰色さも加わって、

貧しい生活を送っているいくつかの家族が

寄り集まっているように見える。

 

家の中にこもらず、

外に出て洗濯物を干す元気があることから、

貧困から脱しようとあがいているが、

中々うまくいっていないのかな。

こんなイメージが膨らむ。

 

改めて本作を見てみると、

奥行きのなさは

生活の厚みやゆとりのなさを暗示していそう。

 

ギリギリの生活の中で

必死に生きていることが伝わってくる作品だ。

 

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